なんびとも一島嶼にてはあらず。
なんびともみずからにして全きはなし。
人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)。本土のひとひら。
そのひとひらの土塊(つちくれ)を、波のきたりて洗い行けば、洗われしだけ欧州の土の失せるはさながらに岬の失せるなり。
汝(な)が友だちや汝(なれ)みずからの荘園の失せるなり。
なんびとのみまかり(死ぬ)ゆくもこれに似て、 みずからを殺(そ)ぐにひとし。
そは、われもまた人類の一部なれば、
ゆえに問うなかれ、誰(た)がために鐘は鳴るやと。
そは汝(な)がために鳴るなれば。
( ジョン・ダン / 大久保康雄訳 )
For Whom the Bell Tolls
No man is an island, entire of itself;
every man is a piece of the continent,
a part of the main.
If a clod be washed away by the sea,
Europe is the less,
as well as if a promontorywere,
as well as if a manor of thy friend's or of thine own were:
any man's death diminishes me,
because I am involved in mankind,
and therefore never send to know
for whom the bells tolls;
it tolls for thee.
John Donne
Devotions upon
Emergent Occasions, no. 17
(Meditation)
1624 (published)
この一節は16世紀から17世紀にかけてイギリスで生きたジョン ・ダンの瞑想録の一部である。彼は詩人としても有名で、 ソネットやエレジー、 諷刺や宗教詩など多方面にわたった詩を書いている。 写真の対訳集には残念ながらこの一節は掲載されていないが、 ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』 のタイトルとして引用されている。
最近、 この一文に思いを寄せることになった一つの出来事があった。
その日はこれ以上望むべくもない、爽やかな秋晴れであった。 数日前から、 私の住む地域には朝から訓練のための空砲が鳴り響いていた。 当日はこの地方を統括する陸上自衛隊の師団司令部の観閲式がある との周知がなされていた。いつもの散歩コースを歩いていると、 やはり空砲の発射音が聞こえてきた。思わず足はそこへ向かった。
簡単なボディチェックを受けて入場すると、 観閲式はすでに終わっていて、 最新鋭の戦車や大砲などの武器のデモンストレーション、 敵の来襲を想定した迎撃と攻撃の訓練が展開された。 空砲が鳴るたびに観客から大きなどよめきが起こった。 小さな子供から老人まで、あらゆる年齢層が集まっていた。 なかには迷彩色カラーの洋服に身を固めた家族連れもいる。 皆笑いさざめきながらこの無料の大スぺクタルである戦闘シーンを 観ていた。 まるでサーカスのような祝祭的でどこか非日常的な空間に迷い込ん だようである。敵の来襲を察知してのドローンによる情報収集、 ヘリコプターから隊員の降下、地上からの機銃掃射、 一連の行動が滞りなく進んでいく。しかし、訓練ということで、 状況説明のマイクの音声にもそれほどの緊迫感はない。 観客の方も大きな音が鳴りますという警告があると、 慌てて歓声を上げながら耳を抑える。 私は目の前で繰り広げられることの重大性をほとんど認識できずに まるでのどかな子供の運動会を訪れたような錯覚に陥っていた。
小一時間もたったころであろうか、ふと脇に目をやると、 小柄な老女が夫に付き添われて立っていた。 夫は彼女の肩に手を置き、優しく語りかけている。 彼女はほとんど身じろぎ一つせず、 まるで彫像のように立っている。 彼女の周りには空漠とした別の空間が広がっていた。 彼女は自分の周りの何ものにも心を動かされていない。 眼は虚ろで何ものにも反応していなかった。 彼女の眼には諦念の哀しみのようなものすらなかった。 ただ洞穴のような目、それは顔に穿たれたただの洞であった。 脳の認知機能を失ったひとの無残な姿、それは魂の死であった。
その時、私の体に電撃が走った。すっかり失念していた、 この勇ましく鳴り響く機銃掃射の弾丸の先に横たわる累々たる死者 、それを彼女の存在は想起させたのである。 弾丸が引き起こすのは肉体の死、 彼女のような緩慢な死ではないが、同じ人間の死。私の周りには様々な死が満ちてきた。 死が通奏低音のように私の体を巡っていく。 秋の空に密やかな死が隣り合わせにひっそりと横たわっていた。
あらためて注意深く隊員たちの姿を眺めると、 武器を前にしての若い隊員たちの顔にはどこか戸惑いのようなもの が感じられた。実戦を潜り抜けていない若者たちの初々しさ、 ああ、 彼らがこのままのなにかしらたどたどしい気配を持ち続けてほしい 、 いつも街のスーパーでカゴの中に思案しながら品物をいれているつ つましやかな彼らの姿、それを思うとき、 母になったことのある私はそのことを痛切さをもって願う。 もし彼らの戦死が報じられるような事態になればこの町の雰囲気は 一変するであろう。 今のように平穏な気持ちでここに住み続けることはできないのだと いう暗い予感がある。
そしてあらためてこの詩が胸に迫ってくるのである。
だれが亡くなってもこの私自身が欠けることなのだ。 この私は人類の一部なのだから。それゆえ、 誰がために鐘は鳴ると問うには及ばない。 他人を弔う鐘は汝のためのものなのだから。